帝都怪奇譚④

佐久間は今日の放課後にでも鵺野に掛け合って封鎖を解くと約束した。譽たちは今日一日、弁論部室を間借して活動を行うことに決めた。結城は最初見るからに不服そうな気色だったが、犬神が頼みこむと気安く間借を了承した。
 ザカライアと中也も呼び寄せ、四人は弁論部の室の隅に寄りかたまった。
「仕事をしますか。」
 犬神は紙を取り出した。今まで起こったことを時系列順に書き連ねていく。すると、最初からわからないことが多すぎる。何故つぐみは川に入ったのか?その場にいた少女に話が聞ければ一番良いのだが……
「紙の上であれこれ考えても仕様がありませんね。虎沢病院に行って、つぐみさんのお父様に話を聞くのが一番手っ取り早いでしょう」
 さっそく我々は虎沢病院に向かった。虎沢病院は神田にあり、譽も睡眠薬を処方してもらっている。
 しかし、病院の入り口には、 暁がいた。西洋人形のような瞳でこちらを見据えている。
「関わらないでと云ったでしょう。」
「わたしは依頼を受けたんですから、解決せねばなりません」
「そうじゃない……そうじゃないのよ……どうしてわかってくれないの。あなたたちは……こんなことで、地獄に、落ちたいの……」
 少女は一言一言、噛み締めるように云った。悲壮な目の色が薄暗い水の底のように深く沈んだ。
「もういいわ……ただ、あなたたちの運命は変わってしまった。戻るなら今の内よ。戻らないのなら……」
 暁は美しい瞳を瞬きさせ、
「己の責任よ。」
「わかっています。」
 譽は直感していた。この事件によって何かが大きく変わることを。そして、 暁は帝都倶楽部よりも一足早く、その変化に巻き込まれてしまったことを。
 帰り際、花散しの雨が降った。
 遠くのバス停で、虎沢つぐみが並んでいるのが見えた。大きな箱を風呂敷に入れて大切に抱え込んでいる。まるで赤子を抱いているかのように―――




  誉は、家の襖を開け放った儘フランス語の勉強をしていたが、鉛筆の芯が折れたとき、にわかに犬神のほうに向き直って、「ネエ梢さんのこと……」といつになくまじめに云った。
 犬神は彼女に壁のほうにこうべを垂れた儘、
「わたしも今考えていたのですよ……アノ事に就いて……」としずかに応えた。
「汎精子説は完全に破綻しています。僕は、つぐみさんは子をなしておらず、妊娠さえしていないと思いますよ。」
「じゃあ、どうしてつぐみさんは身を隠したの? それに川に入ったのだってザカライアが見てるんだよ。」
 譽たちは、意図せず精子が子宮に侵入し、子を孕む『汎精子説』などを考えていたのだが、内実、汎精子説など眉唾物で、ほかの原因からつぐみが奇行に走ったのだと思っていたが、今一つ判然としないのだった。
「赤子が存在せず、妊娠も梢さんの勘違いだとして、一つ一つ解き明かしてみましょう。」と犬神は誉のほうに向きなおり、部屋の端と端で対峙する形になった。二人のあいだで燭台の灯が揺れている。誉はフランス語の帳面に、つぐみの行動を書き出していった。
 まず最初に、ザカライアが見た、玉川に浸かっているつぐみと、川べりでそれを見ている暁の行動の謎である。
「これは直接聞いてみないかぎりはわかりませんから、飛ばしてください。」と犬神は云った。
 次は、数日休んだのちに、つぐみが手紙を置いて逃亡した件だ。文面には、なぜ御生みになったのか、と泣き言がつづられている。
「あたしたちは最初、不義を犯すような娘をどうして生んだのかと読んだんだ。」
「もっと素直に考えれば、これは両親を譴責する手紙です。御両親になにか問題があったのでは?」
「つぐみさんのお父様は虎沢医院の院長先生で、お母様は瘋癲の気を起こして其処の精神科に入院していらっしゃるよ。……まさかその瘋癲を気に病んでいらっしゃるとか。」
「入院されたのはいつ頃です? 幼少の頃よりそうであったのだとしたら聊か不自然ですよ。なぜ今となって、お母様のことを気に病むのです。」
「だとしたら、何故?」
 犬神は一寸押し黙り、目を泳がせて口をひらいたり閉じたりして言いよどんだが、決心したように顔を上げた。
「つぐみさんのお母様は……本当に、精神科に入っていらっしゃるんですか。」
「何だって? いったい、何を考えてるの。」
「僕はある筋書きを考えついたんですがね……それがアンマリに悪魔的なので……にわかに信じがたく思っているんですよ。ですがね……」
「何?」
「僕はこの事件を、重大には思っていないんですよ。」
「何故?」
「こんなことは、仕様も無いことなンですよ。いずれ時が解決してくれる……」
 犬神は奇妙にそんなことを云った。

 

 眼前の男が咳をしている。咳をしている。咳をしている。咳。こんこんこんこん。譽は眩暈がする。眩暈。熱だ。息ぐるしく密封された鉄の檻の中で男と譽は対峙する。咳をしている。咳……
 譽は流行熱に冒されて学校を休んだ。犬神が中也たちを伴なって帰宅した。中也たちの声がぼやけて遠くより聞こえる。
「死んだね。あいつは。まずいなあ。」と、中也があきれたように云う。しばし沈黙。どうやら、わたしのことではない。
「死んだって。」
 譽は声を発するが掠れてかれらのほうまで届かなかった。中也とザカライアはさんざん、上がり花に茶菓子を腹に流し込んで帰った。犬神が台所へいって、譽はまた一人で薄ぐらい部屋にねむっていた。
 窓が叩かれた。最初、雨がふりだしたのだと思ったが、叩く音が不規則で、しかもだんだんに大きくなっていくので、重い頭を持ち上げて窓のほうを見上げると、暁が梯子を用いて窓のほうからわたしを見ている。
 窓をあけてやると、は一寸のあいだわたしの顔を黙って見つめていた。何か訴えかけるような恨めし気な眼つきだが、わたしははじめて彼女を間近でまじまじと見てあらためてそのおそろしいまでの美麗さに見蕩れてしまって、こんなにうつくしいと何かと不便だろうと不憫にさえ思った。
 彼女はその大人びた顔立ちに似合う低い声で、
「つぐみが死んだ。」と云った。わたしは己でも驚くほど平静にそれを受けとめた。
「死んだって、どうしてなの。」
「首をくくったのよ。」
 は譽を譴責するために態々梯子を持ってやってきたのである。彼女の眼は泥水のごとく哀れっぽく濁っていた。彼女は云った。
「わたしを忘れないで。忘れないでよ。そして……」
 犬神の声がした。譽はそのとき発熱が限界をこえて倒れたのである。

 目が覚めると、わたしは虎沢病院の前にいた。流行熱も治っている。すべてがあのとき、病院の前にいたときのままだ。暁が云った。冷たい氷のような声だった。
「そうじゃない……そうじゃないのよ……どうしてわかってくれないの。あなたたちは……こんなことで、地獄に、落ちたいの……」
 デジャヴ。
「暁」
 わたしは云った。
「さん……これが貴女の云う地獄なら……あたしはもう、地獄に堕ちた。だから、……だから……何があっても、平気。」
 暁は目を見開いた。
 犬神も感づいているようだった。暁は諦めたように目を伏せた。
「わたしは……この世界を、何十回と繰り返してきたわ。でも、どうしてもだめなの。いつもつぐみは死んでしまう。つぐみが死んだら、世界は終わってしまい、また最初からやり直させられる。うんざりなのよ。あなたたちにこの地獄の輪廻を解放することができて?」
「とても簡便にとはいきませんが、必ず解決して御覧にいれます。」
 犬神がいつになく堂々と云った。
「ひとつお聞きしたいのですが、つぐみさんが川に入っていたとき、川縁にいたのは貴女ですか?」
「わたしよ。あの娘、自死するというから、止めに行ったのよ。」
「なぜ自死を?」
「それは……それは……過ちを犯したからよ。」
「過ちを教えて」
「できないわ。教える義務がないもの。本来私たちはつぐみとも梢とも無関係なのだから。」
「でも、わたしたちはもうあなたと同じなの。」
「……帝都倶楽部。あなたたちの腕はここで発揮せず、どこでするの?」
  暁は繍しい貌を挑発的に歪ませた。
「わたしは、あなたたちにすべてを託すわ。あなたたちがこの事件を解決できないなら、つぐみはまた死ぬでしょう。でも、それでも、あなたたちに解決してほしいの。だってわたしたちは、既に一蓮托生なのだから。」
 帰路の途中、犬神がこんなことを云った。
「しかし、慌てることもないですよ。実績を作れば佐久間さんが鵺野さんに言いやすくなるから、協力しますけれど……なんとかつぐみさんを学校に来させることさえできたらいいんです。赤子なんて最初からいないんですからね」
「赤子がいない?」
「そもそも、赤子だなんてどうしてわかるんです?全部梢さんがそうおっしゃったせいで、あなたがただの風呂敷を赤子だと見まごうただけなんですよ」
「でも、私の分身といっていたじゃないの。」
「分身って、別に、赤子だけとはかぎらないでしょう。深い思い入れのあるもの……日記とか、人形とか……そんなものでも、思い入れがある人から見れば、分身と呼ぶ。」
「まさか、そんなあ。」
「まあ、この場合、人形じゃちょっと大仰でしょうね。ですから……たとえば……臍の緒なんてどうですか?」
 譽は机の前で木札を眺めていた。よく見ると鍵のような形に見えなくもない。鍵を小箱に入れる?……一体どのような儀式なのだろう。カントを読んでいた犬神に、譽は訊ねてみた。
「この木の札、不思議な形をしていない?先が細くて、手に持つ部分が大きくなっている。これって鍵みたいじゃない?」
「ア、その木札ですね。実は僕も気になっていて調べたんですよ。図書委員長の方が学校の歴史に詳しい方で、すぐ教えてくれましたよ。どうやらそれは、本当に鍵を模したものだそうです。昔、使われていない納屋の鍵を使って、恋人同士がそこで密会を楽しんだそうです。その鍵は納屋の鍵で、どちらか先に着いた方が木箱に入っていた鍵を持ち出して鍵を開けたんですね。それが今や恋愛成就のまじないということになって、鍵を模した木札を入れるようになったそうですよ。」
 恋愛成就のまじない。勉学一辺倒だった譽には知る由も無いことだった。譽は木札を抽斗に仕舞うと、布団を敷いて寝ようとしたが、厭な予感が胸をざわついた。真っ暗な部屋の中で、譽はふすま越しに犬神に云った。
「ネエ……明日、虎沢医院に行かない?」
「ハイ。僕もそう思っていたところです……」
 犬神もまた、思い詰めた声でそう応えた。

「虎沢美鈴さんにお会いしたいんです。」
「親族の方以外は面会はできませんの。」
 放課後、犬神と譽は虎沢医院にやってきたものの、門前払いを食らっていた。
 そのとき、石動暁がどこからともなくやってきて、応対の事務員に云った。
「石動です。この方たちを虎沢美鈴さんに会わせてください。」
「石動様……ハイ、わかりました。」
 事務員は急に立ち上がると、譽たちを虎沢つぐみの母のもとへ連れて行った。道中、譽は暁に云った。
「あなた、この病院と関係あるの?」
「わたしの父がね。」
 石動 暁は多くを語らない。しかしそれにももう慣れてしまった。
 虎沢美鈴の病室は地下にあった。虎沢美鈴は眠っていた。娘によく似て、そして少しあどけない美しい女性であった。
 暁は何の遠慮もなしに、抽斗を開けた。そこには一枚の写真があった。二人の女生徒が肩を寄せ合って微笑んでいる写真である。一人は虎沢美鈴である。
「そんなもの、何か関係あるの?」
「……このもう一人の少女は……葛木梢の母よ。」
 譽は写真をマジマジと見た。……そして……そのことに気がついてしまった。二人の少女の笑顔。それはただの友情の笑顔ではない……と。