帝都怪奇譚②

 譽は、犬神の祖父、犬神聊斎の営む神田の古書店の二階に間借し、幻宗と聊斎とともに暮している。犬神と譽の生活は、洵に静穏無風とよぶに相応しい。聊斎の心遣いで、広い和室を襖で仕切って互いの自室としたが、二人は夜な夜な談論風発を繰り広げるので襖が閉じられることは少かった。犬神は発達した知性と裏腹に瓢逸なところがあり二人はきわめて清廉に、ともすれば同性の朋輩のようにつき合っていた。
 犬神は珍しく女を無みするところなく、掃除や料理など雑事は一とおり自分でこなした。誉は至極快適に恵まれていた。金満家ぞろいの学友達のように着飾ったりする贅沢はできなかったが、もとより身なりに構わぬ性質である譽は特に苦にしていなかった。誉はそれよりも学問を好み書を愛した。その為めに室にこもりがちで膚は黄白く、又、白粉もはたかずまゆ墨も引かないので、あどけなさばかりが目立つ。黒髪は結わずに味気なく肩のあたりまで伸びていて、色気のすくない少女だった。
 たいして犬神は年相応に洒落ていて、当代の文士のように前髪を垂らし、癖毛の髪をはねさせて流行の髪形にしていた。それから彼は銀縁眼鏡をかけて制帽をかむる。その目鼻立ちは端正だが陰性の翳りがあり、どこか病弱で、神経質に見える。加えて痩躯長身で、和装すると如何にも文士風に見えた。
 二人は夜になりそれぞれの部屋に布団を敷くと、襖越しにマルクス、レーニンなどと熱くなって論じ合うが、それ以外ではあまり口をきかず各々自由に、静かに暮らした。それは古書の街に暮らしている者のひとつの特徴なのかもしれなかった。誉も犬神も売り物の古本を一階の売り場からとってきては部屋に持込み、まるで盗んできた菓子をすこしずつ齧って愉しむ悪童のような心持で読んでいた。聊斎もそれを看過した。
 その静謐さは二人の属する倶楽部で何かしらの異変があっても変わることはなかった。寧ろ学校で異変があるときのほうが一層清澄として、休日なども軋む木の廊下の音のほかは何も聞こえないほどだった。
 この度の梢たちの異変においても、二人は家に戻れば平素と相変わりなくしずかに夕餉をたべ、読書をしたり勉強をしたりして過していた。殊犬神は輪をかけて関心をもたぬ様相であった。犬神は質素な夕餉をたべたあと、自室の文机の前で背をまるめて灰っぽい川底のような色の目を支那古典の古本に落とし込んでいた。


 ある朝目ざめたとき、犬神は譽の目蓋が腫れて赤らんでいるのを視て、知らぬふりをした。譽はすでに疲れきった青白い貌をして、犬神の用意した朝餉にはほとんど手をつけず、すこし漬け物をかじったきりで席を立ち、緩慢な動きで鞄に荷物をつめると、犬神の目容もよそに長襦袢をぬぎ制服をまとった。時折彼女の手はふるえたが、一言も言葉を発さなかった。
 聊斎爺が未だ睡っているうちに二人は家を発ち、黎明の花曇り、雲煙縹渺たる神田を往き、銀座線に乗ったころには、桜流しの雨が降りだした。
 葛木教授の斎場の鯨幕は、雨のしめり気をふくんでより重たく、譽の上にのしかかるような気がした。
 帝大の葛木教授は、熱心な教育者として著名で、勉強会や講演会で譽たちとも懇意だった。譽たちの論文や研究を評価し、彼らを愛弟子のように可愛がった。しかしこの数ヶ月のうちに持病が悪化し、竟に鬼籍に入った。斎場には、葛木教授を慕った多くの学徒や教授陣、各界の大物である親戚たちとその付き人が回向していた。
 焼香を済ませたあと、犬神と譽は近くの大樹の陰で驟雨を避けていた。すると、一人の鯔背な青年がやってきて二人の前で立ち止まった。かれは桂木教授の令息、葛木 晴光だった。譽は彼を見とめると縋りつくようにして噎び泣いた。晴光は、蹌踉めく譽を抱きとめ慰撫した。
「泣くな、泣くな。男勝りのお前らしくねえなア。そんなに泣いて、可哀相によ。俺より泣いてどうするんだ?……今度、飯にでも行こう。お前の好きなものを食おう。」
 帝大の学徒であり帝都学園の卒業生でもある晴光は、勉強会で譽と激論を交わすことも多かったが、長上として譽たちから全幅の信頼を寄せられていた。晴光は今日の日を古く覚悟していたのか、凛と振る舞っていた。
 晴光は云った。
「それよりよ、妹がお前の知り合いなんだって? 話して遣ってくれないか。」
「妹?」 
 譽は顔を上げた。斎場前の群衆から一寸離れた処で、背の高い瘠せた少女が此方の様子を伺っていた。そのアンドロジナス的美貌の、短髪の少女は、先週、丸髭堂で話した葛木梢だった。梢は譽と目が合うと、手を振り、雨に濡れるのも構わず木陰の下へ走り寄ってきた。梢は涙をぬぐいぬぐい、上ずった声で、
「譽さん。あなた、父さんのお弟子だったのね。わたし、どこかで名を知っている気がしていたのよ。父さんが夕餉の時分によく貴女の話をしていたわ。神楽坂さんと犬神君と云う、迚も優秀な学生がいて将来が楽しみだって仰有っていたのよ。早く帝大で直々に論議したいと嬉しそうだったわ。父さんも、もう少し踏ン張ってさえいりゃ、二人なら帝大なんて直ぐだったのにねえ……」
 梢はあめんどう形の瞳いっぱいに涙を浮かべた。桜が彼女の髪をすべり落ちた。

  葬式からしばらく経った放課後、譽は部室に飛び入ると、部員たちに伝単(ビラ)を見せた。白に黒インクで瀟洒なビアズリーが描かれている。譽は両手をひろげて芝居がかったように、
「如何にも美しい、今宵の王女サロメは……」と云った。その伝単は、花宵劇場のものであった。
 花宵劇場は九段下駅の程近くにある西洋風の小劇場である。帝都学園の学生は、胸章を付けて花宵劇場でシェークスピアを観るのを特段乙としていた。劇場の近くには私立の女子校もあり、放課後になると劇場前は多くの学生たちでごった返し、格好の社交場でもあった。
「シェークスピアなンぞ、つまらねえよ。新しい活動のほうが良い。」
 中也は口を尖らせて云った。彼は古典を解さないのである。しかし悪友のザカライアは大はりきりで、結局部員全員で劇場に向かうことになった。
 午後六時の開演まで半時あったが、既に劇場の外は様々な制服をまとった学生や、若い辻占売りの女、近所のカフェーの女給などが集いにぎやかであった。犬神に半券を買いに向かわせて、ほかの三人は劇場の入口付近で待っていると、ザカライアが突然アッと甲高く叫んだ。
「なあに?」
 譽は驚いてザカライアのひらかれた大きな青い瞳を視た。
「あの女。」
 ザカライアは譽の背に隠れるように身を屈め、群衆のほうを指差した。指差した先には、開演を待つ二人の女生徒が立っていた。長身の瘠せた体躯の少女と、嫋やかな雰囲気の、赤いカチューシャをつけた少女が仲睦まじそうに談笑している。譽は目を凝らした。それは梢であった。譽も小さくアッと叫んだ。
「梢さんだ。」
「あのカチューシャの女、知ってるのかい。」
 ザカライアは不安そうに声をひそめた。貌がすこし青い。
「いや、もう一人のほうは知り合いだけど、カチューシャの子は知らないよ。知ってるの。」
「あのカチューシャの女、玉川にいた女だよ。御化けじゃないかなあ。」
「ええ? 人ちがいじゃない。」
「いいや、あの女だよ。」
「あの人、うちの学校の生徒じゃないの。」
 梢とカチューシャの女生徒は、揃って帝都学園の制服をまとい、制鞄を携えていた。
 すると、梢は此方に気づき、手を振って大股に近づいてきた。
「奇遇ね。 あなたも演劇がお好きなの。」
「そうです。」
 譽は梢の隣の、カチューシャの少女に視線を映した。おどろく程きめ細やかなしろい肌が輝く、清純な雰囲気の少女である。睫が見蕩れる程長くマヌカンのようである。梢は少女のほうを見て微笑した。
「この方はクラスメートのつぐみさんよ。虎沢つぐみさん。」
「はじめまして。」
 少女は人見知りなのか、顔をすこし強張らせて手を差しのべた。譽は手を握った。
「あたしは帝都倶楽部の神楽坂譽です。」
「帝都倶楽部? あら……あの……」
 つぐみはすっきりとした形のよい瞳をまたたかせて一寸口ごもった。そして譽たちを眺めまわすと、「わたし御不浄に行ってまいりますわ。遅れますから、梢さんは先に席についていて頂戴ね。」と、すこし青白い気色をうかべて人混みのなかへ紛れこんでいった。梢は口を両手でおおってすこし恥ずかしげに、
「ごめんなさい。人見知りのすぎた子なの。御気をわるくなさらないでね。」
 と云った。
 そのとき犬神がチケットを買って戻ってきた。犬神は怪訝な顔で梢を見た。譽は梢を知り合いだとだけ伝えた。
「僕は部長の犬神です。」
「あなたが犬神君なのね。」
 梢は噂どおりの理知的な犬神の風体をもの珍しげに眺めると、短い別れの挨拶をのべてつぐみの元へ戻って行った。譽は、玉川にいたつぐみのことを犬神に伝えた。すると犬神は訝しい顔を浮かべた。
「じゃ玉川にいたのはうちの学生だったんですねえ。」
「川縁にいた女ってのは何なんだよ?」
 中也が云った。ザカライアはおぼろげな記憶を必死で掴まんとしながら、しかし、無謀であった。
 

 二日後、再び梢と対峙することになるとは誉は想像だにしなかった。この巨大な箱庭の中で、偶然のうちに数日とあかず再会するのは、ほとんど魔術的な確率なのだ。
 梢は、二日前とは打って変わって悲痛な、沈鬱な顔を浮かべて部室へやってきた。ソファに腰かけるなり忙しなく両手を擦り合わせたり、何度もスカートの襞を直したりして、落ち着きなく多動している。誉はそれを奇妙に思いながらも、悟られぬように気軽に云った。
「梢さん、この部屋は見つけにくかったでしょう。丸髭堂で場所をお教えしていて良かった。」
 梢は惑乱したような目で誉を凝っと視た。母に縋りつく赤子のような虚弱な表情だった。誉は思わず云った。
「何かありましたか?」
 犬神も梢の異様な態度に困惑した顔もちで、彼女を見守っていた。中也も同様だった。犬神も中也も、劇場前で見た溌剌とした少女の奇妙な態度を怪しんでいる。しかし誉は、直感的に、何かあるのだと感じた。それは女が女に寄せる、一種の神秘的な洞察に違いなかった。
 梢は神経質な声色で云った。身体が震えている。
「此処は……貴方がたは……何ンでも御相談に乗っていただけるのね。其を信じて、私、お話したいことがあるのよ。」
 犬神は泰然に云った。
「ドウゾ御気楽にお話なさってください。我々は口堅い事だけが取柄ですから……」
 誉は茶を淹れて出したが、梢はいつまでたっても手を揉みながら口ごもっていた。中也は呆れて所在無げにしていた。ようやく彼女が口をひらいたのは中也の目蓋が閉じられたあとだった。
「私、つぐみさんと恋仲ですの。」
 彼女の目は血走っていた。誉は当惑して云った。
「はあ、こないだの方ですか。それはよろしいじゃありませんか。」
「恋の苦悩を告白したいわけじゃないのよ。」梢は一瞬躊躇うそぶりを見せたが、振り切るように言葉を重ねた。
「つぐみさんが子を孕んだのじゃないかと思うの。」
「何故?」
「あの子、産婦人科から出てきたの。なんだかふらついていて、顔が真っ青だったわ。あれはきっと掻把の話をつけて気分が落ち込んでいたのよ。」
「梢さん、ちょっと先走りすぎですよ。とにかく事実なのは、つぐみさんが虎沢医院の産婦人科のほうから歩いて出てきたということだけですね?」
「ええ、そうよ。でも、産婦人科なんて、妊婦じゃないと用がないはずよ。あの子は母上がご病気で臥せっているし、本人がそうだというほかないわ。」
「はあ。それにしたって、妊娠の疑いがあるだけで、本当に妊娠したかどうかは定かじゃないでしょう。もしかしたら陰性だったということもある。」
「何を云うの。そんな疑いがあることが、既に不義のはじまりじゃないの。それとも、汎精子説でも唱えるつもり?」
「落ち着いてよ、梢さん。らしくないね。」
「あら。ごめんなさい。でも、私は本当につぐみさんだけを愛してるのよ。誰よりもよ。」
「愛って。」
 誉は怪訝そうに繰り返した。
「あたし、愛なんてよくわからないけれど。」
「今にわかるわ。愛おしくてたまらない人が現れたら、わたしがこんなに死にもの狂いになっている訳もわかるでしょうよ。」
「ハア。まあ、うちは依頼されたものは断らない主義ですからね。調査はしますよ。」
「必ずお願いね。謝礼は弾むわ。なんでもいいわよ。」
「謝礼はいただかないことになっておりますけど、まあ、近頃出がらしばかりで中也がうるさいので、玉露でもいただければ。」