帝都怪奇譚①



 なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
  死んでしまわなかったのか。
  せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
  なぜ、膝があってわたしを抱き、
  乳房があって乳を飲ませたのか。
  それさえなければ、今は黙して伏し、
  憩いを得て眠りについていたであろうに。(11-13節)

 「なぜわたしは、葬り去られた流産の子、
  光を見ない子とならなかったのか。」


  ***

 「不気味だわ……帝都倶楽部なんて。」
 虎沢 つぐみは、眉間に皺寄せ苦々しい貌をして、茶器に口づけた。葛木 梢はちいさく微笑った。
「あら、どうして? なかなか、珍しいことをする人たちよ。」
「一年生はなんでも、我先と珍しいことをしたがるものね。」
 つぐみは茶器を置くとその儘、右手の指を這わせて、テーブルの上に放り投げられていた梢の長細い手の甲をくすぐるように撫でた。二人の少女は一寸見詰め合ったあと、にっこりとうつくしく微笑みあった。
 丸髭堂は、古くより若い学徒や芸術家に愛される老舗で、毎日のように新鮮な討論が交わされるカッフェである。入り口の赤絨毯を踏んだ先に会計場があり、その左右に美しい螺旋階段がのびている。上階からは丁度ぐるりと店内を見渡せる。客は、大方議論好きの学生で、店に程近い名門校、帝都学園の生徒が殆どである。
 つぐみは螺旋階段の陰の下にある、一階の奥の隅の席を気に入って、梢と茶を飲むときはいつもその席を指定して待たせた。ふたりは週に何度か、この席で待ち合わせて他愛もない会話を楽しむのである。
 しかし今日は、梢がくだんのことを話したために、つぐみがすこし厭な態度になった。
 梢は先日、帝都倶楽部の部員と偶然出会ったのである。帝都倶楽部は奇妙な噂の多い非公認のクラブで、数人の学生が学校の隅の物置部屋を巣窟として怪し気な活動をしている。黒魔術だの悪魔崇拝だの、将又、共産主義のシンパだのと碌な噂は無い。才賢と令名を馳せる犬神と云う少年が殊になっているから、噂の的ではあるが、誰も近づこうとはしない。

 梢は昨日の夕刻、西棟三階の廊下を渡っていると、
「ホレ帰れ女郎がヨオ。場を荒らすんじゃアない。」と、どこからともなく学生の威勢のよい声がするので、廊下の向うを眇めると、角部屋の扉の前で少年と少女が云合っていた。
「あたしが悪いって云うの。」
 少女は恰幅の良い学生にも物怖じせず、食って掛かるように云返した。少年はなかば諦念した様子で云った。
「女に弁論なんて猿に烏帽子だよ。じゃじゃ馬め。」
「何だって。この野郎ッ」
 少女が語気を強めたとき、扉がぴしゃりと閉められ、少女は室外に閉出されてしまった。事を見ていた梢は、何と声をかけて善いやら悩んだが、恐々と少女に声かけた。
「何かありまして。」
 少女は初めて梢に気付いた様子で、すこし驚いたような気色を浮かべて云った。
「え。まあ。……先程まで、此処で弁論の小大会がありまして、あたしが弁論部長を去勢して見せましたら、非部員の、それも女郎如きが弁論とは恥知らずだ何だのと、時代錯誤な野次を飛ばしてきたもんですから、あたしも黙っておれない性分ですので、御覧の有様ですの。」
 我が帝都学園の弁論部といえば国内でも一流と名高い格式ある活動で著名だから、女生徒ひとり身で乗り込んで、踏ン反りがえった三年部長の鼻を明かしてやったという話が真実であれば、何ンと伶俐な少女だろうと、梢は驚いた。
 少女は、絶世の美女という程でもないが、笑みの悪戯っぽく愛嬌あり、いかにも放縦な風采で、その様子があまりに弁論などというラヂカルな言葉と結びつかず、梢は呆気に取られてしまった。
 宵の口の時分、少女は諦めて帰宅する心算らしいので、これも奇遇なりと、梢は彼女を連立って、丸髭堂へ向った。
 二人は螺旋階段を昇って二階の隅の席に腰かけた。二人を見るなり、壁際で持て余していた女給の一人が我先にと笑顔で注文をたずねた。少女は平素よりこの喫茶室を利用するらしく、大判の品書きを端に寄せて迷いなく紅茶とケーキを注文した。梢はサンデーを頼んだ。
「貴女、お名前は?」
 梢は少女の顔をまんじりと見た。あどけない頬の丸みが洋灯に照らされて橙に染まっている。
「神楽坂 譽。変わってるでしょう。」
 梢はその名をどこかで聴いた気がした、
「ホマレ? 良いお名前ね。貴女にぴったりな感じがするわ。」
「そうですか。男勝りな風で、あまり気に入っていないんですけど。」
 譽はそう云って一寸羞じいったように笑った。
 譽は、中等部から上がってきたばかりの一年生だと云うが、先輩の梢に対して狎昵な印象を受けた。目上にも物怖じしないと云う風である。それは彼女の、自分自身の智識にたいする自信から溢れるものなのだろうと梢は感じた。そしてまた、少女の黒目がちの瞳は、微笑っていてもゆるむことなく対手の疵を見据えているようで、どことなく落着かなかった。まるで幼い肉の器の中に老嬢が棲み着いて、少女の唇から顔を覗かせ、見る者を鷹のように睨めつけているようだった。
「わたしは葛木 梢よ。」
「葛木? それって……」
 二人は見詰め合った。譽は一瞬、目を逸らした。女給が笑顔を刻みつけながら紅茶とケーキとサンデーを運んできた。ほかの女給たちが壁に凭れて雑談しているのが、店内の蓄音機の音と混ざり合って騒がしい。
「葛湯の葛に、木よ。どうかして?」
「いいえ。素敵なお名前と思って」
 話の継穂がなくなったので、梢は一年生を可愛がるようなことを云った。
「春から、何か部活に入るのでしょう? もうお誘いはあった?」
「え? 部活ですか? あたし……」
 譽と名乗る少女は、一瞬云い澱んだ。
「あたし、もう入ってるんです。」
「もう入ってるの? もしかして、中等部からずっと?」
「はい。」
「それは残念ね。よかったら、わたしの所属しているクラブにお誘いしようと思ったんだけれど。……わたし、庭球部に入ってるのよ。」
 梢は傍らのテニスラケットを披露しようとしたが、譽は梢の話に興味が無さそうだった。梢のサンデーを勝手に啄んで、壁の印象派の画を眺めている。梢は訊ねた。
「あなた、何部なの?」
「帝都倶楽部。」
「帝都?」
 譽は梢の瞳を凝っと視て、判然と繰り返した。
「あたし、帝都倶楽部です。」
「あら、帝都倶楽部って、ほんとにあったのね。七不思議なんだと思ってたわ。一階の奥の物置部屋に巣くう亡霊……わたし、聞いたことがあってよ。」
 譽はアッと噴き出して笑った。笑うとしろい頬にちいさな靨ができていっそう幼気にみえる。
「亡霊じゃアありません。あたしは副部長で、部長の犬神もチャンと生きてますからね……あたしたち、名の通り、帝都をよりすばらしい都市にすべく、日夜いろいろと研究するために設立したんですが、近ごろは無料の小間使みたいなことばかりしているんですよ。試験にそなえて漢文を教えてほしいだとか、迷子の猫を捜してほしいだとかいう、学生の困りごとをきいてやってるんです。」
「お人好しなのね。」
 譽は男のように腕を組んで身を乗り出した。少女的な声色に似合わず、話し言葉も男じみている。
「べつに、そうじゃありませんけど、犬神という奴が……これがどうにも頼み事を断れない柔な奴なのです。ですから人から人へ、帝都倶楽部は面倒ごとを片づけてくれる万屋だということで、学生がやってくるんですよ。それを知らない生徒は、さぞ不気味にお思いでしょうね。」
「そうねえ。でも御立派だわ。東京をよくしたいだなんて、見上げたもんだわよ。」
 二人は六時の鐘のつく頃に丸髭堂を出た。日は翳り街衢の桜並木が揺れている。神保町の交差点前で譽は梢の眼前に立ち、頭を下げた。
「じゃ、あたし、此処で。」
「またお会いできたらいいわね。」
「いつでも。なにかお困りでしたら、物置の亡霊迄。」
 譽は笑顔でそう云残して身を翻し立去って行った。お代を、と言いかけた梢の言葉は春の夜風に霧散した。
 梢はそのことを、翌日丸髭堂で同性の恋人、つぐみに話すと、つぐみは翫笑に付した。
「体のいい事を云って、実際はアカの隠れ蓑か何かよ。馬鹿らしい……すぐに鵺野さんが封鎖するわ。」
「つぐみって、一寸おかしなことがあると、すぐそうやって疑るのね。どの時代だってああ云う人たちが、此の国を良い方向へ導く船頭になるのよ。」
「馬鹿らしい、馬鹿らしい。やめて頂戴。あんな気味の悪い連中の話はもううんざりだわ。わたし、もう帰るわね」
 つぐみは席を立つと白百合の香水の香りを振りまきながら、席を立った。


 帝都倶楽部の部室は、帝都学園の下足室を右折し階段の踊り場の突き当たりを左折し、気の遠くなるような長い通路を入った最奥に位置する。教室や中庭からも遠く、人影少い薄暗い室である。部室の窓から桜が舞いこんだのを見て、譽は窓を閉切った。部屋には、譽の他に三人の少年がおのおのソファや椅子に座っていた。
 そのうちの一人の少年が、昨晩狂人を見たと云いだした。
「払暁の玉川で女が腰まで浸かっていたんだよ。気味悪かッたよ。化生かと思って、僕は走って逃げてきたんだア……」
 少年は飴色の髪の異国人で、名をザカライアと云う。卵色の肌に赤らむ頬、優美な薄い眉、夜明け色の瞳などは西洋の宗教画に描かれる聖童貞のような清らかさを称えており、誰もが見蕩れるような紅顔の美少年である。少年は、大げさに手を広げて、こんな風に、と真似をした。
 それを聞いて、破れかぶれの薄汚いソファに寝ころんでいた少年が、半身を起こしてソファの上で胡座をかいて頬杖をついた。この少年は名を齋藤中也と云い、五尺二寸ばかりの小柄な童顔である。高下駄に逆あみだかむりして、髪をのばしマントを羽織り、弊衣破帽の豪放ぶりやといったところ。おおきな二重の瞳は化粧したような紅に染まっている。彼はポケットからバットを取り出して喫みながら、
「気違いに決まってら。春冷えの時期に川に入ろうなんてのは。」と云い捨てた。
「堕胎かな。」
 窓べりの埃を払っていた譽が、うわ言のように呟いた。二人の少年は彼女を見て怪訝そうに首をかしげた。蛮カラの中也少年が聞き返した。
「堕胎だって?」
「よくある話だよ。掻爬する金の無い女が冬の川に入水して堕ろそうとするんだ。ただ、今の時期は如何だろうねえ。どう思う? 犬神。」
 犬神と呼ばれた、窓際の椅子に腰かけた少年は、読書を止めて顔を上げた。銀縁眼鏡をかけた、聡明を絵にかいたような涼やかな顔立ちの少年である。犬神は切れ長の瞳を瞬かせて、
「はあ。堕胎。」と間の抜けた声を発した。「そういう方法もありますが、今の御時世にそのような旧時代的方法を取りますか。まだホオズキを煎ずるほうが趣がありますが、何方にしても古臭いですね。」
「じゃ、只の水浴びじゃあないの。ザカライア。」
 譽は軽く笑った。ザカライアはなおも恐怖を伝えんと顔を赤らめて云った。
「それにしたッて、異様な雰囲気だったよ。川縁で凝イ……っとそれを見ている女もいてさ。」
「不良娘のお遊戯に違いねえ。」
 中也は一笑に付して、また午睡にはいった。ザカライアは飽きた様子で何処かへ遊びに行ってしまった。
 喧しい校内のひずみに生まれたしじまの室。
 譽は何の気なしに犬神の読んでいた本を取り上げて表紙を見た。黒い表紙に赤文字で、『ドグラ・マグラ』とある。譽は一寸馬鹿にしたような顔を浮かべた。
「ヘエ、才子犬神君でも幻想小説がお好きなの……」
 犬神は咳払いをした。
 犬神は博覧強記の愛書家である。今になって怪奇幻想小説の傑作と名高い『ドグラ・マグラ』に手を出すのは聊か遅蒔きだと譽は揶揄ったのである。
「期待を裏切るようですが、再読ですよ。」
「何ンだ。好きなんだね。」
「否……」犬神は譽から本を取り返すと、頁を人差し指で弄りながら、ボンヤリと窓外を眺めた。夕映えが揺らぐ二人の影を部屋の床に落とし込んだ。
「昨夜、お爺さんが睡むるときに、左半身を下にしているのを視たンですよ。それが僕の寝姿によく肖ていると貴女は云ったでしょう。」
「ああ、そんなこと、云ったかな。」
「フと、之は遺伝かと思ったのですよ。それで、昔夢野久作の本で其様な話があったと思い出しましてね。まあ……気紛れですよ。」
 譽は弁解じみた犬神の話を聞き流しながら窓べりを拭き続けていた。