帝都怪奇譚⑤

 犬神と譽と暁は、とある一つの答えに辿り着いた。
 夏目美鈴の毎日の愉しみは、放課後の密会だった。佼しい彼女は男子生徒から人気があったが、美鈴はそれには目もくれず、授業が終わるとすぐに校庭に向かった。そして間諜のように辺りを見渡すと、校庭の木の傍に隠してある木箱を開けた。木箱の中には何も入っていない。
 すると美鈴は、今は遣われていない古い納屋へ走った。そこには、もう一人の少女、南田ゆず子が、手持ち無沙汰に待っていた。
 ゆず子は美鈴を見るなり接吻をした。長い接吻であった。
「今日ね、3組の葛木君から呼び出しがあったの。」
 美鈴は云った。「でも断ったわ。貴女との時間のほうが大切ですもの。」
「嬉しいわ。」
 二人は秘密の恋仲だった。学校では知らぬふりをしていたが、毎日ここで密会をして、互いのことを話すのが何よりの悦びであった。
 しかし、卒業後、美鈴は先輩の虎沢との婚約がすぐに決まった。美鈴とゆず子は泣きながら互いの悲恋を憂えた。そして半年後にも、ゆず子の結婚が決まった。相手は同級生の葛木だった。
 結婚後も二人は密会を重ねた。逢う度に新鮮に恋慕しあった。
 しかし、その恋は果敢なく終わった。ゆず子は双子を生み、そのまま死んだ。
「そして、」
 犬神は言い淀んだ。
「こんな悪魔的なことは……そう信じたくはないのですが……梢さんとつぐみさんは双子なのでしょう。」
「そうよ。」
 暁はそれを知っていた。
「だからつぐみは、入水自殺しようとしたのよ。」
「一寸待って。どうやって美鈴さんはつぐみさんを貰ったの?赤ん坊を貰うなんて考えられない。」
「これは推論だけれど……葛木教授は……本当は美鈴さんを愛していたんじゃないかしら。虎沢氏は何度も赤子を返すように美鈴にいったが、美鈴は半狂乱になり、またつぐみが虎沢氏を父として認識しだしたため、それを諦めた。つぐみの兄に云ったところ、虎沢美鈴の部屋には山ほどの恋文と写真があったそうよ。だから、愛人の子と嘘をついて、つぐみと美鈴を近づけなかった。」
 二十年前の恋が、再び娘に宿る。一体そんなことが起こるのだろうか?譽はそのとき、犬神の読んでいた本を思いだした。
 ドグラ・マグラ……遺伝による恋。それは何とも奇妙で、奇譚である。

 翌日、つぐみは学校に登校してきていた。
「おはよう、譽さん。」
「おはようございます。学校、お休みされていたのは大丈夫でしたの?」
「アア、ふふ、平気よ。石動さんから聞いたけれど、うちの両親のことも聞いたんですってね。一時は思い詰めて、へその緒を持って入水しようかと思ったんだけれど、なんだか急にさっぱりした気持ちになってね。梢とはもう関係しないことにしたわ。」
「え?」
「女の子って、一時、同性に魅力を感じてしまうことがあるでしょう?わたしと梢がそうだったみたい。でもそれって本当の恋じゃなくて、一種の憧れみたいなものよね。それにわたしたちは双子だから、余計に惹かれ合ったみたい。」
 譽は犬神の言葉を思いだしていた。『時が解決してくれる………』

 放課後、譽が部室に行くと、窓辺に石動 暁が座っている。やはり面と向かって見ると、凄艶ともいうべき美しさである。
「不本意だけれど、あなたに感謝するわ。これで、この事件の輪廻は終わった。」
「わたしは何も……」
「でも、これであなたたちは輪廻に組み込まれた。わたしが再三忠告したのにも関わらずね。」
「……これからも輪廻は続くの?」
「さあ。それはわからないわ。事件が起こる度、わたしたちは死に、また生き返って、解決するまでずっと事件を繰り返し解決し続けなければならない。だから……」
 石動 暁の髪に桜が舞い落ちた。
「わたしも帝都倶楽部に入るわ。」
 ドグラ・マグラ。譽は、あの本のことが何度も反芻されてしかたなかった。

 

 

 

 

 

帝都怪奇譚④

佐久間は今日の放課後にでも鵺野に掛け合って封鎖を解くと約束した。譽たちは今日一日、弁論部室を間借して活動を行うことに決めた。結城は最初見るからに不服そうな気色だったが、犬神が頼みこむと気安く間借を了承した。
 ザカライアと中也も呼び寄せ、四人は弁論部の室の隅に寄りかたまった。
「仕事をしますか。」
 犬神は紙を取り出した。今まで起こったことを時系列順に書き連ねていく。すると、最初からわからないことが多すぎる。何故つぐみは川に入ったのか?その場にいた少女に話が聞ければ一番良いのだが……
「紙の上であれこれ考えても仕様がありませんね。虎沢病院に行って、つぐみさんのお父様に話を聞くのが一番手っ取り早いでしょう」
 さっそく我々は虎沢病院に向かった。虎沢病院は神田にあり、譽も睡眠薬を処方してもらっている。
 しかし、病院の入り口には、 暁がいた。西洋人形のような瞳でこちらを見据えている。
「関わらないでと云ったでしょう。」
「わたしは依頼を受けたんですから、解決せねばなりません」
「そうじゃない……そうじゃないのよ……どうしてわかってくれないの。あなたたちは……こんなことで、地獄に、落ちたいの……」
 少女は一言一言、噛み締めるように云った。悲壮な目の色が薄暗い水の底のように深く沈んだ。
「もういいわ……ただ、あなたたちの運命は変わってしまった。戻るなら今の内よ。戻らないのなら……」
 暁は美しい瞳を瞬きさせ、
「己の責任よ。」
「わかっています。」
 譽は直感していた。この事件によって何かが大きく変わることを。そして、 暁は帝都倶楽部よりも一足早く、その変化に巻き込まれてしまったことを。
 帰り際、花散しの雨が降った。
 遠くのバス停で、虎沢つぐみが並んでいるのが見えた。大きな箱を風呂敷に入れて大切に抱え込んでいる。まるで赤子を抱いているかのように―――




  誉は、家の襖を開け放った儘フランス語の勉強をしていたが、鉛筆の芯が折れたとき、にわかに犬神のほうに向き直って、「ネエ梢さんのこと……」といつになくまじめに云った。
 犬神は彼女に壁のほうにこうべを垂れた儘、
「わたしも今考えていたのですよ……アノ事に就いて……」としずかに応えた。
「汎精子説は完全に破綻しています。僕は、つぐみさんは子をなしておらず、妊娠さえしていないと思いますよ。」
「じゃあ、どうしてつぐみさんは身を隠したの? それに川に入ったのだってザカライアが見てるんだよ。」
 譽たちは、意図せず精子が子宮に侵入し、子を孕む『汎精子説』などを考えていたのだが、内実、汎精子説など眉唾物で、ほかの原因からつぐみが奇行に走ったのだと思っていたが、今一つ判然としないのだった。
「赤子が存在せず、妊娠も梢さんの勘違いだとして、一つ一つ解き明かしてみましょう。」と犬神は誉のほうに向きなおり、部屋の端と端で対峙する形になった。二人のあいだで燭台の灯が揺れている。誉はフランス語の帳面に、つぐみの行動を書き出していった。
 まず最初に、ザカライアが見た、玉川に浸かっているつぐみと、川べりでそれを見ている暁の行動の謎である。
「これは直接聞いてみないかぎりはわかりませんから、飛ばしてください。」と犬神は云った。
 次は、数日休んだのちに、つぐみが手紙を置いて逃亡した件だ。文面には、なぜ御生みになったのか、と泣き言がつづられている。
「あたしたちは最初、不義を犯すような娘をどうして生んだのかと読んだんだ。」
「もっと素直に考えれば、これは両親を譴責する手紙です。御両親になにか問題があったのでは?」
「つぐみさんのお父様は虎沢医院の院長先生で、お母様は瘋癲の気を起こして其処の精神科に入院していらっしゃるよ。……まさかその瘋癲を気に病んでいらっしゃるとか。」
「入院されたのはいつ頃です? 幼少の頃よりそうであったのだとしたら聊か不自然ですよ。なぜ今となって、お母様のことを気に病むのです。」
「だとしたら、何故?」
 犬神は一寸押し黙り、目を泳がせて口をひらいたり閉じたりして言いよどんだが、決心したように顔を上げた。
「つぐみさんのお母様は……本当に、精神科に入っていらっしゃるんですか。」
「何だって? いったい、何を考えてるの。」
「僕はある筋書きを考えついたんですがね……それがアンマリに悪魔的なので……にわかに信じがたく思っているんですよ。ですがね……」
「何?」
「僕はこの事件を、重大には思っていないんですよ。」
「何故?」
「こんなことは、仕様も無いことなンですよ。いずれ時が解決してくれる……」
 犬神は奇妙にそんなことを云った。

 

 眼前の男が咳をしている。咳をしている。咳をしている。咳。こんこんこんこん。譽は眩暈がする。眩暈。熱だ。息ぐるしく密封された鉄の檻の中で男と譽は対峙する。咳をしている。咳……
 譽は流行熱に冒されて学校を休んだ。犬神が中也たちを伴なって帰宅した。中也たちの声がぼやけて遠くより聞こえる。
「死んだね。あいつは。まずいなあ。」と、中也があきれたように云う。しばし沈黙。どうやら、わたしのことではない。
「死んだって。」
 譽は声を発するが掠れてかれらのほうまで届かなかった。中也とザカライアはさんざん、上がり花に茶菓子を腹に流し込んで帰った。犬神が台所へいって、譽はまた一人で薄ぐらい部屋にねむっていた。
 窓が叩かれた。最初、雨がふりだしたのだと思ったが、叩く音が不規則で、しかもだんだんに大きくなっていくので、重い頭を持ち上げて窓のほうを見上げると、暁が梯子を用いて窓のほうからわたしを見ている。
 窓をあけてやると、は一寸のあいだわたしの顔を黙って見つめていた。何か訴えかけるような恨めし気な眼つきだが、わたしははじめて彼女を間近でまじまじと見てあらためてそのおそろしいまでの美麗さに見蕩れてしまって、こんなにうつくしいと何かと不便だろうと不憫にさえ思った。
 彼女はその大人びた顔立ちに似合う低い声で、
「つぐみが死んだ。」と云った。わたしは己でも驚くほど平静にそれを受けとめた。
「死んだって、どうしてなの。」
「首をくくったのよ。」
 は譽を譴責するために態々梯子を持ってやってきたのである。彼女の眼は泥水のごとく哀れっぽく濁っていた。彼女は云った。
「わたしを忘れないで。忘れないでよ。そして……」
 犬神の声がした。譽はそのとき発熱が限界をこえて倒れたのである。

 目が覚めると、わたしは虎沢病院の前にいた。流行熱も治っている。すべてがあのとき、病院の前にいたときのままだ。暁が云った。冷たい氷のような声だった。
「そうじゃない……そうじゃないのよ……どうしてわかってくれないの。あなたたちは……こんなことで、地獄に、落ちたいの……」
 デジャヴ。
「暁」
 わたしは云った。
「さん……これが貴女の云う地獄なら……あたしはもう、地獄に堕ちた。だから、……だから……何があっても、平気。」
 暁は目を見開いた。
 犬神も感づいているようだった。暁は諦めたように目を伏せた。
「わたしは……この世界を、何十回と繰り返してきたわ。でも、どうしてもだめなの。いつもつぐみは死んでしまう。つぐみが死んだら、世界は終わってしまい、また最初からやり直させられる。うんざりなのよ。あなたたちにこの地獄の輪廻を解放することができて?」
「とても簡便にとはいきませんが、必ず解決して御覧にいれます。」
 犬神がいつになく堂々と云った。
「ひとつお聞きしたいのですが、つぐみさんが川に入っていたとき、川縁にいたのは貴女ですか?」
「わたしよ。あの娘、自死するというから、止めに行ったのよ。」
「なぜ自死を?」
「それは……それは……過ちを犯したからよ。」
「過ちを教えて」
「できないわ。教える義務がないもの。本来私たちはつぐみとも梢とも無関係なのだから。」
「でも、わたしたちはもうあなたと同じなの。」
「……帝都倶楽部。あなたたちの腕はここで発揮せず、どこでするの?」
  暁は繍しい貌を挑発的に歪ませた。
「わたしは、あなたたちにすべてを託すわ。あなたたちがこの事件を解決できないなら、つぐみはまた死ぬでしょう。でも、それでも、あなたたちに解決してほしいの。だってわたしたちは、既に一蓮托生なのだから。」
 帰路の途中、犬神がこんなことを云った。
「しかし、慌てることもないですよ。実績を作れば佐久間さんが鵺野さんに言いやすくなるから、協力しますけれど……なんとかつぐみさんを学校に来させることさえできたらいいんです。赤子なんて最初からいないんですからね」
「赤子がいない?」
「そもそも、赤子だなんてどうしてわかるんです?全部梢さんがそうおっしゃったせいで、あなたがただの風呂敷を赤子だと見まごうただけなんですよ」
「でも、私の分身といっていたじゃないの。」
「分身って、別に、赤子だけとはかぎらないでしょう。深い思い入れのあるもの……日記とか、人形とか……そんなものでも、思い入れがある人から見れば、分身と呼ぶ。」
「まさか、そんなあ。」
「まあ、この場合、人形じゃちょっと大仰でしょうね。ですから……たとえば……臍の緒なんてどうですか?」
 譽は机の前で木札を眺めていた。よく見ると鍵のような形に見えなくもない。鍵を小箱に入れる?……一体どのような儀式なのだろう。カントを読んでいた犬神に、譽は訊ねてみた。
「この木の札、不思議な形をしていない?先が細くて、手に持つ部分が大きくなっている。これって鍵みたいじゃない?」
「ア、その木札ですね。実は僕も気になっていて調べたんですよ。図書委員長の方が学校の歴史に詳しい方で、すぐ教えてくれましたよ。どうやらそれは、本当に鍵を模したものだそうです。昔、使われていない納屋の鍵を使って、恋人同士がそこで密会を楽しんだそうです。その鍵は納屋の鍵で、どちらか先に着いた方が木箱に入っていた鍵を持ち出して鍵を開けたんですね。それが今や恋愛成就のまじないということになって、鍵を模した木札を入れるようになったそうですよ。」
 恋愛成就のまじない。勉学一辺倒だった譽には知る由も無いことだった。譽は木札を抽斗に仕舞うと、布団を敷いて寝ようとしたが、厭な予感が胸をざわついた。真っ暗な部屋の中で、譽はふすま越しに犬神に云った。
「ネエ……明日、虎沢医院に行かない?」
「ハイ。僕もそう思っていたところです……」
 犬神もまた、思い詰めた声でそう応えた。

「虎沢美鈴さんにお会いしたいんです。」
「親族の方以外は面会はできませんの。」
 放課後、犬神と譽は虎沢医院にやってきたものの、門前払いを食らっていた。
 そのとき、石動暁がどこからともなくやってきて、応対の事務員に云った。
「石動です。この方たちを虎沢美鈴さんに会わせてください。」
「石動様……ハイ、わかりました。」
 事務員は急に立ち上がると、譽たちを虎沢つぐみの母のもとへ連れて行った。道中、譽は暁に云った。
「あなた、この病院と関係あるの?」
「わたしの父がね。」
 石動 暁は多くを語らない。しかしそれにももう慣れてしまった。
 虎沢美鈴の病室は地下にあった。虎沢美鈴は眠っていた。娘によく似て、そして少しあどけない美しい女性であった。
 暁は何の遠慮もなしに、抽斗を開けた。そこには一枚の写真があった。二人の女生徒が肩を寄せ合って微笑んでいる写真である。一人は虎沢美鈴である。
「そんなもの、何か関係あるの?」
「……このもう一人の少女は……葛木梢の母よ。」
 譽は写真をマジマジと見た。……そして……そのことに気がついてしまった。二人の少女の笑顔。それはただの友情の笑顔ではない……と。

帝都怪奇譚③

誉はひどい眠気に押されて、梢が去るなりソファに寝ころんで泥のように眠った。昨晩のように夢は見なかったが、黒々とした闇の中に取り残されたような寂寞とした思いが睡りのさなかにも感じられた。この事件に関わることで、自分が常闇のほうへ押し出されるというような、奇妙な確信めいたものが誉の中で渦巻いていた。
 梢は昨日、つぐみが医院の産婦人科から出てくるのを見たという。
「つぐみさんは不義を犯したんじゃないかしら。それで、まるで罪人のように病院へ駆け込んだんだわ。」
「家族のどなたかの見舞いでは?」
 犬神は云った。「お母様やお姉さまは……」
「つぐみさんのお母様は長く臥せていらして、妊孕されるような容体ではないのよ。それにつぐみさんは一粒種なの」
「はあ、一粒種」
 犬神はどこか間の抜けたような声をあげた。口もぽっかり開けて
「ああ……でも、可哀相に、お妾の子なのよ。だから、お家には入れさせてもらえなくて、駒込に小間使いと二人で暮しているのよ。」
 梢は両手で顔を覆った。犬神は珍しく関心ありげに問うた。
「お父様はご存じなのですか?」
「つぐみのお父様は、虎沢医院の院長様よ。本当は内内のひめごとなのだけれど、こっそりと教えて呉れたわ。お母様が其れ者だもんで父子の縁は世間に公にされていないのよ。つぐみさんは、虎沢の名を戴いただけでも勿怪の幸いだと云っていたけれど……」
「虎沢医院の。それは御立派ですね。」
 犬神は茶を飲むと、
「しかし、今のところ動くことはできませんね。つぐみさんが本当に妊娠しているのか、そしてそれを白状するか。これは一日、二日では解決できない問題ですからね。」
「待っている間に子が生まれたらいかがなさる気?」
 梢は泣きながら怒っている。
「僕の勘ではありますがね……これは一週間も経てば解決すると思いますよ。」
「それはきっとね?」
「お約束いたしましょう」
 梢は幾分安心した様子で、部室をあとにした。
 譽は犬神の背を叩いた。
「ァイタッ」
「あんな啖呵切って、きちんとできるんだろうね。」
「予感ですよ……」
 犬神は苦笑いしていたが、目は伶俐に光っていた。
 
 翌日、梢がまた部室に来た。大変興奮している容子だった。彼女は一枚の手紙を差し出した。差出人は、虎沢つぐみからだった。
「わたくしの不義をおゆるしください。おかあさま、なぜわたくしを御産みになったのか。おとうさま、なぜわたくしを御捨てにならなかったのか。地獄は冥府になく、現世にあり。…… 
わたしはその日、わたしを抱いていた。わたしの分身を両手に抱いて、雨をしのぐため背を丸めて抱え込んだ。誰にも見られてはならぬ。一刻もはやく、これを、これを……永遠に葬り去らなければ。誰も居ないところへ……誰も知らぬところへ……」

「はあ、これは変な手紙ですねえ。」
 犬神は顎をかいた。
「そう?不義のゆるしを乞う手紙にはちがいないよ。それにしても純情だねえ。こんな詫び状を書いてよこすなんて。」
 譽は窓帷を閉めた。犬神はしきりに、はあ、はあ、と変に頷きながら、眼鏡の奥の目を細めたり開いたりしていた。そして手紙を丁寧に折り目づけて閉じると、鼻から息を吐いた。
「これは変ですよ。たしかに梢さんに渡されたものでしょうが、内容は御両親にあてたものじゃないですか。」
「それは、不義を犯した自分は、両親から生まれたからでしょう。良人のほかに両親に詫びるのは珍しいことじゃない。」
「フム。それもそうですがね。……つぐみさんのご両親は今どちらに。」
「昨日申し上げたように、つぐみさんは、虎沢医院の院長の娘ですの。それでお母様は、瘋癲の気があるとかで、虎沢医院に入院されているそうだよ。」
「瘋癲。そうですか。瘋癲……」
「かわいそうにね。つぐみさん、ご苦労されてるんだねえ。」
 それから、譽たちは駒込にあるつぐみの家に寄った。女中の老婆が出てきたが、つぐみは戻ってきていないという。
「お嬢様がこんなに長い間、黙って外泊なさるなんて一度もございませんでしたから、わたくし心配で。」
「胸中お察しいたします。つぐみさんは我々が探し出してみせます」
 犬神はいつもの柔な雰囲気から一変、力強くそう云った。
 つぐみの家を出ると、見知らぬ女が立っていた。帝都学園の制服を着ている。凄艶ともいうべき美少女である。つややかな花の香りのする髪をなびかせながら、大きな瞳で凝視っと見ている。
「どなたです?」
「この件にあなたたちは必要ないわ。」
 少女はそっけなく云った。
「何のこと?」
 譽は少しいらだった。
「つぐみのことよ。これ以上関わらないで。さもないと、あなたたちにまで危険が及ぶわ。」
「それくらい承知の上です。」
「あなたたちが想像できないような怨念、情念……それらは呪いとなってあなたたちに降りかかるの。もう、これ以上は何もしないで。」
 少女はそう言い残すと、踵を返して何処かへ行ってしまった。
「なんだアありゃア」
 中也は叫んだ。譽たちは困惑するしかなかった。しかし彼女の言葉には淵玄なところがあり、無視することもできなかった。
「あの子、一年の 暁ね。」
 梢が云った。
「ご存知ですか?」
「むしろ、あなたたちが知らないほうが驚いたわ。あの美貌。入学試験は犬神くんと同じで、満点主席。随分噂になったものよ」
「そんな優秀な奴、帝都倶楽部に入れるしかないね。」
「どうもこうも、あの調子じゃア入るわけはねえな。」
「それにしても、『つぐみに関わるな』とはどういうことでしょうね。彼女は何か知ってるんでしょうか。」
 結局、手紙は犬神が預かり、その場で解散した。

 庭の鉄砲百合が朝露にぬれ真珠のように輝く朝、帝都学園帝都倶楽部部室の前には屈強な青年たちが仁王立ちになり入口を塞いでいた。わたしは眠けまなこをこすり擦り登校し、廊下の角を曲がって部室のほうを眇めたが、部室前に立ち並ぶ青年たちを見とめると、顔を青くして数歩後ろについていた犬神のほうに向きなおった。
「部室が監獄に封鎖された!」
「本当ですか。」
 犬神は半信半疑の顔で部室のほうを見ようとしたので、わたしは慌てて彼の裾を引っ張りその場から離れた。
 学生監獄は帝都学園の自治組織で、生徒会長の名のもとに警邏や刑務所の役割を担っている。生徒数三千人超の学園においては、このような自治組織の権力は強大である。邏卒の頭数は数百人に及び、学園内での暴力事件や危険思想犯を取締まっている。
 わたしたちは以前より学生監獄と反目している。帝都倶楽部の部室の占有を生徒会が問題視しているのである。わたしたちは活動成績を報告し、部の公式化を求めているが、生徒会は断固部の存在を認めぬ心算らしい。そして部の設立四年目にして竟に、学生監獄を通して部室の封鎖に踏み切ったのである。
「下手に動いちゃ対手の思う壺だよ。あたしたちは飽く迄、校則を遵守する紳士的なクラブなんだからね。犬神はすぐおたおたするからいけない。肝要なのは周章狼狽せんことだよ。」
 あたしは内心怯えながらもそう云い、犬神を置いて一人で部室の前へ向かった。部室の前には五、六人の青年が微動だにせず立ちはだかっている。青年の一人が一歩前に出ると、
「お前が此処の代表者か。」と訊ねた。
「帝都倶楽部副部長です。何の御用ですか?」
「生徒会長の命で、この物置部屋は使用不可とする。」と青年は懐から紙を取り出してぞんざいにこちらに手渡した。その紙は勧告書で、倶楽部の活動停止を命ずるといった内容が簡素に書かれていた。
「倶楽部は非公式なのですから、会長の命を聞く必要はありませんでしょ。」
「屁理屈捏ねるンじゃない。本学園の中での活動はすべて生徒会の許可のもとに行われるのだ。」
「それは暴力じゃございませんこと。」
 そのとき扉が開き、室内から鹿爪らしい青年が現れた。視線の鋭い、病的に気むつかしそうな青年である。青年は前髪を右手で撫でつけると誉のほうを突き刺すように視た。
「尊公らがやっている事は国賊密偵と同類だ。己の昏い将来を予見し、飯の種にせんが為め、有望な我が学園の生徒の身辺を嗅ぎ回る下衆どもめ。」
 わたしは押黙って、青年を瞻った。青年の眼元の不健康な隈のあたりが小さく脈打っている。その澆薄、陰惨たる表情の凄味に、満堂ひとしく息を吞んだ。
 すると其処へ又一人の青年が、付き人らしい男を伴なって来、暴虐な青年総監の肩を撲った。
「なンだってこんな朝から喧しいんだ。鵺野……お前は少々手荒過ぎる。」
 わたしはその青年を見知っていた。彼は体育委員長の佐久間玲司であった。朝礼で全校生徒を前に快活に挨拶している姿を、譽は毎週寝ぼけまなこを擦りながら眺めていた。
 いつも地べたから朝礼台の上に立つ彼を見上げていた譽は、眼前の壮佼な青年から伝わる、極めて健康的な迫力に圧倒された。
 鵺野は剣呑な表情で佐久間の手を振り払うと、
「彼奴らは数年に及んで不当に学園の敷地を占有しているのだぞ。その上こいつ等の活動と云ったら……」
 鵺野は急に言葉をとめて口を噤んだ。それから、
「兎も角、この室を解放することは今後一切無いのだから、部も解散するように。」と云残して、部下とともに去って行った。
 それと入れ違いに犬神がいそいそとやってきて、佐久間にこうべを垂れて、
「ありがとうございます。」と云った。
 佐久間は明朗に笑って、
「鵺野はまったく頑固な老人のような奴だよな。俺も手を焼いてるんだ。何せすぐ背後には会長がいるんだから、強気も強気だよ。それに、これは内密の事だが(と、彼は声をひそめ)、奴は一年生の時分より陸軍の参謀本部から目をかけられているような、詰るところ規律キチガイなんだな。学園の不正を律して、何事もなく卒業すりゃあいつはすぐに陸大に上がって、ゆくゆくは大将って腹積もりだ。」
「じゃあの方は予科の学生なんですね。」
 政府は、教育機関の乱立を防ぐため数校の巨大国立校を指定校と定め、奨学金などを充実させて全国から優秀な学生を募っている。帝都学園に隣接している陸軍予科学校もまた、指定校として多くの士官志望の若者を抱えている。そして、陸軍予科学校の中でも教養課程の成績が優等な学生は、特別に帝都学園で教養課程の授業を受けるのである。予科の学生は一学年に数名しかおらず、未来の将校として好奇の的になることもしばしばあるが、殊に鵺野は予科の学生でありながら帝都学園のなかでも優秀な成績を残し、また、自治組織である監獄の総監にまで任命されたために、ちょっとした有名人だった。わたしが彼を知らなかったのは、ひとえに友人が少なすぎたためだ。
 犬神は何か思い出したように突然大きい声で、
「封鎖されているってことは中の蔵書も取り出せないということですか」
「蔵書だって?中に本があるのか。まあ無理だろうな。監獄はとんでもなく横暴だぜ。蔵書なんぞ、押収して図書館に寄贈するか、売り飛ばすかもしれねえ。」
 佐久間は冗談めかして笑い飛ばしたが、犬神は顔面蒼白になっている。何しろ部室には貴重な初版本やちりめん本、苦労して探し出した文献が山ほど積み重なっていたのだ。
「あたしたちもう少し粘ってみます。寄贈なんてトンデもないですよ。」
「あ、それならよ。」佐久間は付き人らしい背の高い壮健な学生に目くばせした。彼は少しこうべを垂れ、恭しい態度で、
「すこしお時間いただけませんか。立ち話もなんですので、委員会室にご案内いたします」
 清冽な声であった。直線の濃く太い眉毛と、その下に開かれた黒々とした瞳の気迫に負け、わたしたちは体育委員会委員室に向かった。
 
 体育委員会は委員会系列の中で最も頭数が多い巨大委員会で、その権力も計り知れない。委員は軍隊のように統率され、幾千人に及ぶ全校生徒の風紀を律するため、目を光らせて憲兵のように校内を練り歩くため、一般生徒からはいたく畏怖されている。
 委員会室は西棟の最上階にあって、東棟の最上階の生徒会室と対峙する形で生徒たちを監視している。頑丈な観音開きの扉を開けると、会議室ほど広い室に、強健な男子生徒が数人、机を挟んで向かい合って座っていた。彼らは佐久間の顔をみとめるなり素早く立ち上がって直利不動で長を出迎えた。
「こちらは帝都倶楽部の代表者の犬神と神楽坂だ」
 佐久間は先ほど軽く挨拶した程度の二人の名前を判然と述べ、旧知の仲のような親しげな笑みを浮かべた。男子委員たちは訝しげな表情のまま軽く二人を見て頭を下げた。佐久間は彼らに目で退室を促し、四人だけが残された。付き人の青年は天徳寺と名乗った。
 佐久間は窓際の牛革のソファに深々と腰かけると、後ろに控える天徳寺に茶を持ってこさせた。天徳寺は寸分も厭な気色も見せず、むしろ斉眉の妻のごとく剛健な大きい躰をせわしそうに動かし立ち回って主人に尽くしているので、わたしは大へん窮屈な思いがした。まるで下人のように振舞う彼でさえ、委員会の二番手であるからには、わたしや犬神とは比べ物にならぬほど家柄も育ちもよいはずなのである。
 佐久間は顎をかきながら、
「なに、畏まるんじゃない。なんせ俺が呼び止めて御足労頂いたんだからな。一限目を飛ばすことになったのは申し訳ないが……」
「構いませんよ。一限目は運動ですので、幸運なくらいです」
 犬神は冗談とも本気とも取れぬ調子でそう云って佐久間を笑わせた。わたしは、佐久間が微笑みながら手で木のようなものを遊ばせているのに気付いた。
「それは何ですか?」
「これは落し物だよ。偶々校庭で拾ったんだ。」
 佐久間はわたしにそれを手渡した。それは二寸ほどの平らな木の札で、素人がナイフで削り取ったようなものだった。犬神が横からそれを覗き込んで、
「わたしも見たことがありますよ。校庭の納屋ちかくのブナの木の下に小さな箱があって、そこにちょうどこんな風な木屑みたいなものがたくさん詰められていたんです。」
「そうだ。これは、聞くところによればまじないとか願掛けの一つらしい。人目を忍んでこの木札を箱に入れると想い人と結ばれるというんだ。」
 佐久間は色恋の沙汰を口にするのも照れ臭いのか、わざとらしく笑った。そしてこう付け足した。「浮かれた奴が多いなあ。指導対象だ」
 わたしはしげしげとそれを眺めまわした。木札はなにも書いておらず、ただ手に収まる形に削り取られているのみだ。手に持つ部分が四角く、先は細くなっている。
「なぜこんな木札が恋のまじないに効くのでしょう?しかも、相手の名前も書かないようじゃ、意味がないのではございませんか」
「はあ、そりゃ俺に聞かれたって困るよ」と佐久間は頭を掻いて、
「しかし、どうやら、名前を書くのは御法度なんだそうだ。名前どころか、入れているのも見られてはいけないし、誰を想っているのかも知られてはいけないんだそうだぜ。これはただ羞しいというわけじゃなくてよ、見られたらその恋は終わるから絶対にいけないというんだよ。理由はわからんのだがな」
「はあ。不思議な願掛けですね」
 犬神はその木札をわたしから受け取ると、目を凝らして観察していた。
「木の板と呼ぶにはすこし小さいですね。」
「昔からこうなんだってよ。」
「ふうん。でも、何も書きませんのね。普通は名前を書いたりするんじゃありません?相合い傘みたいに。」
「それがよ、名前は絶対に書いちゃいけないんだってよ。変だよな。誰が入れたのか知られると、叶わないんだとさ。」
「そりゃ、シャイだからですか。」
「いやあ、どうだかな。しかし俺のきいたところによれば、人に見られたり、自分と知られたら、もう入れてはいけないんだそうだよ。どうしてもと思うなら翌日に持ち越さなけりゃいけない。忍ぶ恋というやつだな。うん。近ごろの妄りな若者にしちゃあ、いじらしいじゃねえか? まあ、おまえたちみたいな見栄っ張りの猪口才たちには無関係な話だろうがなあ。ははは。」
 佐久間は、閑話休題とばかりに咳払いをして、本題に入った。
「実は昨日、監獄のほうへ行ったら鵺野の奴が、帝都倶楽部の強制封鎖について話していたんで、権力による抑圧は見逃せんと思って待ち伏せていたんだ。青鳥を飛ばしても良かったんだが、奴は俺くらいでないとまともに取り合わないからなあ。」
 真正面から見た佐久間は、存外に色っぽさのある顔立ちをしていて、わたしは少し慄いた。目頭の肉がハッキリ露呈した迫力のある目と、黛で描いたような青蛾、細く鼻筋の通った鼻などは、いかにも流行りの美男子らしく、それにくわえて長い前髪を広い額の真ん中で分けた髪形が彼に気障で蛮風な印象を与えていた。
 佐久間はふと真面目な顔をして心持身を乗り出した。しかし、そのとき天徳寺が何を思ってかその気勢をとがめるように彼の前に茶を差し出したので、佐久間は我に返った様子でまたソファに背もたれた。天徳寺が云った。
「ハッキリ申し上げますと、我々が総監に掛け合って封鎖を解くことは可能です。貴重な蔵書もそのままあなたたちのもとに返るでしょう。しかし、そのために我々に協力の姿勢を見せていただきたいのです。」
 忠孝の士は君主の口を穢さぬよう代弁した。犬神は能天気に茶をすすりながら、
「協力とはなんです?」と訊いた。
「十月に行われる来年度の生徒会総選挙にかかる協力です。」
 佐久間はにやにやと奇妙な笑みを浮かべている。まるで悪戯坊主のような顔である。
佐久間は云った。
「貴公らも既知のとおり、我が学園において生徒会という存在は非常に強大だ。そしてつい十年ほど前まで、生徒会長に就いた生徒のほとんどは体育委員会会長を歴任していたんだ。現在のような文弱の徒が生徒会を占めるようになったのはここ最近のことなんだよ。このまま文弱政治が続くようじゃ、学園の未来が危ぶまれる。そう思わねえか」
 彼はあからさまに口吻を洩らすような物言いをしたが、しかし、わたしたちこそが体錬を憎み詩学を愛する正真正銘の「文弱の徒」なのである。わたしは答に窮した。すると犬神が飄々とした口吻で云った。
「こちらの委員会の予算が減らされているのですか。」
「はあ、まあ、そういうことだ。」
「それで、我々に選挙活動で暗躍しろと仰有るわけですね。佐久間さんが次期生徒会長に当選するように。」
 天徳寺は慌てた様子で、
「暗躍などという卑怯な真似はさせん。ただ、貴公らがナチ党ゲッベルズ首相のプロパガンダの手法を研究していると小耳に挟んだのでな。」
 確かにわたしたちはプロパガンダの手法を研究していた時期がある。しかしそれは退屈しのぎの考究にすぎず、実践の段階には至っていなかった。しかし、わたしはこれ幸いとばかりに威勢よく答えた。
「ええ、確かにそうです。わたしたちは学生の身ながら日本の更なる繁栄のために日夜色々な研究に励んでいる高尚な部活なのですよ。口先だけの、ペテンばかり上手い詭弁論部よりも数段高明である自負があります。」
 委員会の二人は顔を見合わせて哄笑した。犬神は呆れ顔で譽を見ていた。

帝都怪奇譚②

 譽は、犬神の祖父、犬神聊斎の営む神田の古書店の二階に間借し、幻宗と聊斎とともに暮している。犬神と譽の生活は、洵に静穏無風とよぶに相応しい。聊斎の心遣いで、広い和室を襖で仕切って互いの自室としたが、二人は夜な夜な談論風発を繰り広げるので襖が閉じられることは少かった。犬神は発達した知性と裏腹に瓢逸なところがあり二人はきわめて清廉に、ともすれば同性の朋輩のようにつき合っていた。
 犬神は珍しく女を無みするところなく、掃除や料理など雑事は一とおり自分でこなした。誉は至極快適に恵まれていた。金満家ぞろいの学友達のように着飾ったりする贅沢はできなかったが、もとより身なりに構わぬ性質である譽は特に苦にしていなかった。誉はそれよりも学問を好み書を愛した。その為めに室にこもりがちで膚は黄白く、又、白粉もはたかずまゆ墨も引かないので、あどけなさばかりが目立つ。黒髪は結わずに味気なく肩のあたりまで伸びていて、色気のすくない少女だった。
 たいして犬神は年相応に洒落ていて、当代の文士のように前髪を垂らし、癖毛の髪をはねさせて流行の髪形にしていた。それから彼は銀縁眼鏡をかけて制帽をかむる。その目鼻立ちは端正だが陰性の翳りがあり、どこか病弱で、神経質に見える。加えて痩躯長身で、和装すると如何にも文士風に見えた。
 二人は夜になりそれぞれの部屋に布団を敷くと、襖越しにマルクス、レーニンなどと熱くなって論じ合うが、それ以外ではあまり口をきかず各々自由に、静かに暮らした。それは古書の街に暮らしている者のひとつの特徴なのかもしれなかった。誉も犬神も売り物の古本を一階の売り場からとってきては部屋に持込み、まるで盗んできた菓子をすこしずつ齧って愉しむ悪童のような心持で読んでいた。聊斎もそれを看過した。
 その静謐さは二人の属する倶楽部で何かしらの異変があっても変わることはなかった。寧ろ学校で異変があるときのほうが一層清澄として、休日なども軋む木の廊下の音のほかは何も聞こえないほどだった。
 この度の梢たちの異変においても、二人は家に戻れば平素と相変わりなくしずかに夕餉をたべ、読書をしたり勉強をしたりして過していた。殊犬神は輪をかけて関心をもたぬ様相であった。犬神は質素な夕餉をたべたあと、自室の文机の前で背をまるめて灰っぽい川底のような色の目を支那古典の古本に落とし込んでいた。


 ある朝目ざめたとき、犬神は譽の目蓋が腫れて赤らんでいるのを視て、知らぬふりをした。譽はすでに疲れきった青白い貌をして、犬神の用意した朝餉にはほとんど手をつけず、すこし漬け物をかじったきりで席を立ち、緩慢な動きで鞄に荷物をつめると、犬神の目容もよそに長襦袢をぬぎ制服をまとった。時折彼女の手はふるえたが、一言も言葉を発さなかった。
 聊斎爺が未だ睡っているうちに二人は家を発ち、黎明の花曇り、雲煙縹渺たる神田を往き、銀座線に乗ったころには、桜流しの雨が降りだした。
 葛木教授の斎場の鯨幕は、雨のしめり気をふくんでより重たく、譽の上にのしかかるような気がした。
 帝大の葛木教授は、熱心な教育者として著名で、勉強会や講演会で譽たちとも懇意だった。譽たちの論文や研究を評価し、彼らを愛弟子のように可愛がった。しかしこの数ヶ月のうちに持病が悪化し、竟に鬼籍に入った。斎場には、葛木教授を慕った多くの学徒や教授陣、各界の大物である親戚たちとその付き人が回向していた。
 焼香を済ませたあと、犬神と譽は近くの大樹の陰で驟雨を避けていた。すると、一人の鯔背な青年がやってきて二人の前で立ち止まった。かれは桂木教授の令息、葛木 晴光だった。譽は彼を見とめると縋りつくようにして噎び泣いた。晴光は、蹌踉めく譽を抱きとめ慰撫した。
「泣くな、泣くな。男勝りのお前らしくねえなア。そんなに泣いて、可哀相によ。俺より泣いてどうするんだ?……今度、飯にでも行こう。お前の好きなものを食おう。」
 帝大の学徒であり帝都学園の卒業生でもある晴光は、勉強会で譽と激論を交わすことも多かったが、長上として譽たちから全幅の信頼を寄せられていた。晴光は今日の日を古く覚悟していたのか、凛と振る舞っていた。
 晴光は云った。
「それよりよ、妹がお前の知り合いなんだって? 話して遣ってくれないか。」
「妹?」 
 譽は顔を上げた。斎場前の群衆から一寸離れた処で、背の高い瘠せた少女が此方の様子を伺っていた。そのアンドロジナス的美貌の、短髪の少女は、先週、丸髭堂で話した葛木梢だった。梢は譽と目が合うと、手を振り、雨に濡れるのも構わず木陰の下へ走り寄ってきた。梢は涙をぬぐいぬぐい、上ずった声で、
「譽さん。あなた、父さんのお弟子だったのね。わたし、どこかで名を知っている気がしていたのよ。父さんが夕餉の時分によく貴女の話をしていたわ。神楽坂さんと犬神君と云う、迚も優秀な学生がいて将来が楽しみだって仰有っていたのよ。早く帝大で直々に論議したいと嬉しそうだったわ。父さんも、もう少し踏ン張ってさえいりゃ、二人なら帝大なんて直ぐだったのにねえ……」
 梢はあめんどう形の瞳いっぱいに涙を浮かべた。桜が彼女の髪をすべり落ちた。

  葬式からしばらく経った放課後、譽は部室に飛び入ると、部員たちに伝単(ビラ)を見せた。白に黒インクで瀟洒なビアズリーが描かれている。譽は両手をひろげて芝居がかったように、
「如何にも美しい、今宵の王女サロメは……」と云った。その伝単は、花宵劇場のものであった。
 花宵劇場は九段下駅の程近くにある西洋風の小劇場である。帝都学園の学生は、胸章を付けて花宵劇場でシェークスピアを観るのを特段乙としていた。劇場の近くには私立の女子校もあり、放課後になると劇場前は多くの学生たちでごった返し、格好の社交場でもあった。
「シェークスピアなンぞ、つまらねえよ。新しい活動のほうが良い。」
 中也は口を尖らせて云った。彼は古典を解さないのである。しかし悪友のザカライアは大はりきりで、結局部員全員で劇場に向かうことになった。
 午後六時の開演まで半時あったが、既に劇場の外は様々な制服をまとった学生や、若い辻占売りの女、近所のカフェーの女給などが集いにぎやかであった。犬神に半券を買いに向かわせて、ほかの三人は劇場の入口付近で待っていると、ザカライアが突然アッと甲高く叫んだ。
「なあに?」
 譽は驚いてザカライアのひらかれた大きな青い瞳を視た。
「あの女。」
 ザカライアは譽の背に隠れるように身を屈め、群衆のほうを指差した。指差した先には、開演を待つ二人の女生徒が立っていた。長身の瘠せた体躯の少女と、嫋やかな雰囲気の、赤いカチューシャをつけた少女が仲睦まじそうに談笑している。譽は目を凝らした。それは梢であった。譽も小さくアッと叫んだ。
「梢さんだ。」
「あのカチューシャの女、知ってるのかい。」
 ザカライアは不安そうに声をひそめた。貌がすこし青い。
「いや、もう一人のほうは知り合いだけど、カチューシャの子は知らないよ。知ってるの。」
「あのカチューシャの女、玉川にいた女だよ。御化けじゃないかなあ。」
「ええ? 人ちがいじゃない。」
「いいや、あの女だよ。」
「あの人、うちの学校の生徒じゃないの。」
 梢とカチューシャの女生徒は、揃って帝都学園の制服をまとい、制鞄を携えていた。
 すると、梢は此方に気づき、手を振って大股に近づいてきた。
「奇遇ね。 あなたも演劇がお好きなの。」
「そうです。」
 譽は梢の隣の、カチューシャの少女に視線を映した。おどろく程きめ細やかなしろい肌が輝く、清純な雰囲気の少女である。睫が見蕩れる程長くマヌカンのようである。梢は少女のほうを見て微笑した。
「この方はクラスメートのつぐみさんよ。虎沢つぐみさん。」
「はじめまして。」
 少女は人見知りなのか、顔をすこし強張らせて手を差しのべた。譽は手を握った。
「あたしは帝都倶楽部の神楽坂譽です。」
「帝都倶楽部? あら……あの……」
 つぐみはすっきりとした形のよい瞳をまたたかせて一寸口ごもった。そして譽たちを眺めまわすと、「わたし御不浄に行ってまいりますわ。遅れますから、梢さんは先に席についていて頂戴ね。」と、すこし青白い気色をうかべて人混みのなかへ紛れこんでいった。梢は口を両手でおおってすこし恥ずかしげに、
「ごめんなさい。人見知りのすぎた子なの。御気をわるくなさらないでね。」
 と云った。
 そのとき犬神がチケットを買って戻ってきた。犬神は怪訝な顔で梢を見た。譽は梢を知り合いだとだけ伝えた。
「僕は部長の犬神です。」
「あなたが犬神君なのね。」
 梢は噂どおりの理知的な犬神の風体をもの珍しげに眺めると、短い別れの挨拶をのべてつぐみの元へ戻って行った。譽は、玉川にいたつぐみのことを犬神に伝えた。すると犬神は訝しい顔を浮かべた。
「じゃ玉川にいたのはうちの学生だったんですねえ。」
「川縁にいた女ってのは何なんだよ?」
 中也が云った。ザカライアはおぼろげな記憶を必死で掴まんとしながら、しかし、無謀であった。
 

 二日後、再び梢と対峙することになるとは誉は想像だにしなかった。この巨大な箱庭の中で、偶然のうちに数日とあかず再会するのは、ほとんど魔術的な確率なのだ。
 梢は、二日前とは打って変わって悲痛な、沈鬱な顔を浮かべて部室へやってきた。ソファに腰かけるなり忙しなく両手を擦り合わせたり、何度もスカートの襞を直したりして、落ち着きなく多動している。誉はそれを奇妙に思いながらも、悟られぬように気軽に云った。
「梢さん、この部屋は見つけにくかったでしょう。丸髭堂で場所をお教えしていて良かった。」
 梢は惑乱したような目で誉を凝っと視た。母に縋りつく赤子のような虚弱な表情だった。誉は思わず云った。
「何かありましたか?」
 犬神も梢の異様な態度に困惑した顔もちで、彼女を見守っていた。中也も同様だった。犬神も中也も、劇場前で見た溌剌とした少女の奇妙な態度を怪しんでいる。しかし誉は、直感的に、何かあるのだと感じた。それは女が女に寄せる、一種の神秘的な洞察に違いなかった。
 梢は神経質な声色で云った。身体が震えている。
「此処は……貴方がたは……何ンでも御相談に乗っていただけるのね。其を信じて、私、お話したいことがあるのよ。」
 犬神は泰然に云った。
「ドウゾ御気楽にお話なさってください。我々は口堅い事だけが取柄ですから……」
 誉は茶を淹れて出したが、梢はいつまでたっても手を揉みながら口ごもっていた。中也は呆れて所在無げにしていた。ようやく彼女が口をひらいたのは中也の目蓋が閉じられたあとだった。
「私、つぐみさんと恋仲ですの。」
 彼女の目は血走っていた。誉は当惑して云った。
「はあ、こないだの方ですか。それはよろしいじゃありませんか。」
「恋の苦悩を告白したいわけじゃないのよ。」梢は一瞬躊躇うそぶりを見せたが、振り切るように言葉を重ねた。
「つぐみさんが子を孕んだのじゃないかと思うの。」
「何故?」
「あの子、産婦人科から出てきたの。なんだかふらついていて、顔が真っ青だったわ。あれはきっと掻把の話をつけて気分が落ち込んでいたのよ。」
「梢さん、ちょっと先走りすぎですよ。とにかく事実なのは、つぐみさんが虎沢医院の産婦人科のほうから歩いて出てきたということだけですね?」
「ええ、そうよ。でも、産婦人科なんて、妊婦じゃないと用がないはずよ。あの子は母上がご病気で臥せっているし、本人がそうだというほかないわ。」
「はあ。それにしたって、妊娠の疑いがあるだけで、本当に妊娠したかどうかは定かじゃないでしょう。もしかしたら陰性だったということもある。」
「何を云うの。そんな疑いがあることが、既に不義のはじまりじゃないの。それとも、汎精子説でも唱えるつもり?」
「落ち着いてよ、梢さん。らしくないね。」
「あら。ごめんなさい。でも、私は本当につぐみさんだけを愛してるのよ。誰よりもよ。」
「愛って。」
 誉は怪訝そうに繰り返した。
「あたし、愛なんてよくわからないけれど。」
「今にわかるわ。愛おしくてたまらない人が現れたら、わたしがこんなに死にもの狂いになっている訳もわかるでしょうよ。」
「ハア。まあ、うちは依頼されたものは断らない主義ですからね。調査はしますよ。」
「必ずお願いね。謝礼は弾むわ。なんでもいいわよ。」
「謝礼はいただかないことになっておりますけど、まあ、近頃出がらしばかりで中也がうるさいので、玉露でもいただければ。」

帝都怪奇譚①



 なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
  死んでしまわなかったのか。
  せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
  なぜ、膝があってわたしを抱き、
  乳房があって乳を飲ませたのか。
  それさえなければ、今は黙して伏し、
  憩いを得て眠りについていたであろうに。(11-13節)

 「なぜわたしは、葬り去られた流産の子、
  光を見ない子とならなかったのか。」


  ***

 「不気味だわ……帝都倶楽部なんて。」
 虎沢 つぐみは、眉間に皺寄せ苦々しい貌をして、茶器に口づけた。葛木 梢はちいさく微笑った。
「あら、どうして? なかなか、珍しいことをする人たちよ。」
「一年生はなんでも、我先と珍しいことをしたがるものね。」
 つぐみは茶器を置くとその儘、右手の指を這わせて、テーブルの上に放り投げられていた梢の長細い手の甲をくすぐるように撫でた。二人の少女は一寸見詰め合ったあと、にっこりとうつくしく微笑みあった。
 丸髭堂は、古くより若い学徒や芸術家に愛される老舗で、毎日のように新鮮な討論が交わされるカッフェである。入り口の赤絨毯を踏んだ先に会計場があり、その左右に美しい螺旋階段がのびている。上階からは丁度ぐるりと店内を見渡せる。客は、大方議論好きの学生で、店に程近い名門校、帝都学園の生徒が殆どである。
 つぐみは螺旋階段の陰の下にある、一階の奥の隅の席を気に入って、梢と茶を飲むときはいつもその席を指定して待たせた。ふたりは週に何度か、この席で待ち合わせて他愛もない会話を楽しむのである。
 しかし今日は、梢がくだんのことを話したために、つぐみがすこし厭な態度になった。
 梢は先日、帝都倶楽部の部員と偶然出会ったのである。帝都倶楽部は奇妙な噂の多い非公認のクラブで、数人の学生が学校の隅の物置部屋を巣窟として怪し気な活動をしている。黒魔術だの悪魔崇拝だの、将又、共産主義のシンパだのと碌な噂は無い。才賢と令名を馳せる犬神と云う少年が殊になっているから、噂の的ではあるが、誰も近づこうとはしない。

 梢は昨日の夕刻、西棟三階の廊下を渡っていると、
「ホレ帰れ女郎がヨオ。場を荒らすんじゃアない。」と、どこからともなく学生の威勢のよい声がするので、廊下の向うを眇めると、角部屋の扉の前で少年と少女が云合っていた。
「あたしが悪いって云うの。」
 少女は恰幅の良い学生にも物怖じせず、食って掛かるように云返した。少年はなかば諦念した様子で云った。
「女に弁論なんて猿に烏帽子だよ。じゃじゃ馬め。」
「何だって。この野郎ッ」
 少女が語気を強めたとき、扉がぴしゃりと閉められ、少女は室外に閉出されてしまった。事を見ていた梢は、何と声をかけて善いやら悩んだが、恐々と少女に声かけた。
「何かありまして。」
 少女は初めて梢に気付いた様子で、すこし驚いたような気色を浮かべて云った。
「え。まあ。……先程まで、此処で弁論の小大会がありまして、あたしが弁論部長を去勢して見せましたら、非部員の、それも女郎如きが弁論とは恥知らずだ何だのと、時代錯誤な野次を飛ばしてきたもんですから、あたしも黙っておれない性分ですので、御覧の有様ですの。」
 我が帝都学園の弁論部といえば国内でも一流と名高い格式ある活動で著名だから、女生徒ひとり身で乗り込んで、踏ン反りがえった三年部長の鼻を明かしてやったという話が真実であれば、何ンと伶俐な少女だろうと、梢は驚いた。
 少女は、絶世の美女という程でもないが、笑みの悪戯っぽく愛嬌あり、いかにも放縦な風采で、その様子があまりに弁論などというラヂカルな言葉と結びつかず、梢は呆気に取られてしまった。
 宵の口の時分、少女は諦めて帰宅する心算らしいので、これも奇遇なりと、梢は彼女を連立って、丸髭堂へ向った。
 二人は螺旋階段を昇って二階の隅の席に腰かけた。二人を見るなり、壁際で持て余していた女給の一人が我先にと笑顔で注文をたずねた。少女は平素よりこの喫茶室を利用するらしく、大判の品書きを端に寄せて迷いなく紅茶とケーキを注文した。梢はサンデーを頼んだ。
「貴女、お名前は?」
 梢は少女の顔をまんじりと見た。あどけない頬の丸みが洋灯に照らされて橙に染まっている。
「神楽坂 譽。変わってるでしょう。」
 梢はその名をどこかで聴いた気がした、
「ホマレ? 良いお名前ね。貴女にぴったりな感じがするわ。」
「そうですか。男勝りな風で、あまり気に入っていないんですけど。」
 譽はそう云って一寸羞じいったように笑った。
 譽は、中等部から上がってきたばかりの一年生だと云うが、先輩の梢に対して狎昵な印象を受けた。目上にも物怖じしないと云う風である。それは彼女の、自分自身の智識にたいする自信から溢れるものなのだろうと梢は感じた。そしてまた、少女の黒目がちの瞳は、微笑っていてもゆるむことなく対手の疵を見据えているようで、どことなく落着かなかった。まるで幼い肉の器の中に老嬢が棲み着いて、少女の唇から顔を覗かせ、見る者を鷹のように睨めつけているようだった。
「わたしは葛木 梢よ。」
「葛木? それって……」
 二人は見詰め合った。譽は一瞬、目を逸らした。女給が笑顔を刻みつけながら紅茶とケーキとサンデーを運んできた。ほかの女給たちが壁に凭れて雑談しているのが、店内の蓄音機の音と混ざり合って騒がしい。
「葛湯の葛に、木よ。どうかして?」
「いいえ。素敵なお名前と思って」
 話の継穂がなくなったので、梢は一年生を可愛がるようなことを云った。
「春から、何か部活に入るのでしょう? もうお誘いはあった?」
「え? 部活ですか? あたし……」
 譽と名乗る少女は、一瞬云い澱んだ。
「あたし、もう入ってるんです。」
「もう入ってるの? もしかして、中等部からずっと?」
「はい。」
「それは残念ね。よかったら、わたしの所属しているクラブにお誘いしようと思ったんだけれど。……わたし、庭球部に入ってるのよ。」
 梢は傍らのテニスラケットを披露しようとしたが、譽は梢の話に興味が無さそうだった。梢のサンデーを勝手に啄んで、壁の印象派の画を眺めている。梢は訊ねた。
「あなた、何部なの?」
「帝都倶楽部。」
「帝都?」
 譽は梢の瞳を凝っと視て、判然と繰り返した。
「あたし、帝都倶楽部です。」
「あら、帝都倶楽部って、ほんとにあったのね。七不思議なんだと思ってたわ。一階の奥の物置部屋に巣くう亡霊……わたし、聞いたことがあってよ。」
 譽はアッと噴き出して笑った。笑うとしろい頬にちいさな靨ができていっそう幼気にみえる。
「亡霊じゃアありません。あたしは副部長で、部長の犬神もチャンと生きてますからね……あたしたち、名の通り、帝都をよりすばらしい都市にすべく、日夜いろいろと研究するために設立したんですが、近ごろは無料の小間使みたいなことばかりしているんですよ。試験にそなえて漢文を教えてほしいだとか、迷子の猫を捜してほしいだとかいう、学生の困りごとをきいてやってるんです。」
「お人好しなのね。」
 譽は男のように腕を組んで身を乗り出した。少女的な声色に似合わず、話し言葉も男じみている。
「べつに、そうじゃありませんけど、犬神という奴が……これがどうにも頼み事を断れない柔な奴なのです。ですから人から人へ、帝都倶楽部は面倒ごとを片づけてくれる万屋だということで、学生がやってくるんですよ。それを知らない生徒は、さぞ不気味にお思いでしょうね。」
「そうねえ。でも御立派だわ。東京をよくしたいだなんて、見上げたもんだわよ。」
 二人は六時の鐘のつく頃に丸髭堂を出た。日は翳り街衢の桜並木が揺れている。神保町の交差点前で譽は梢の眼前に立ち、頭を下げた。
「じゃ、あたし、此処で。」
「またお会いできたらいいわね。」
「いつでも。なにかお困りでしたら、物置の亡霊迄。」
 譽は笑顔でそう云残して身を翻し立去って行った。お代を、と言いかけた梢の言葉は春の夜風に霧散した。
 梢はそのことを、翌日丸髭堂で同性の恋人、つぐみに話すと、つぐみは翫笑に付した。
「体のいい事を云って、実際はアカの隠れ蓑か何かよ。馬鹿らしい……すぐに鵺野さんが封鎖するわ。」
「つぐみって、一寸おかしなことがあると、すぐそうやって疑るのね。どの時代だってああ云う人たちが、此の国を良い方向へ導く船頭になるのよ。」
「馬鹿らしい、馬鹿らしい。やめて頂戴。あんな気味の悪い連中の話はもううんざりだわ。わたし、もう帰るわね」
 つぐみは席を立つと白百合の香水の香りを振りまきながら、席を立った。


 帝都倶楽部の部室は、帝都学園の下足室を右折し階段の踊り場の突き当たりを左折し、気の遠くなるような長い通路を入った最奥に位置する。教室や中庭からも遠く、人影少い薄暗い室である。部室の窓から桜が舞いこんだのを見て、譽は窓を閉切った。部屋には、譽の他に三人の少年がおのおのソファや椅子に座っていた。
 そのうちの一人の少年が、昨晩狂人を見たと云いだした。
「払暁の玉川で女が腰まで浸かっていたんだよ。気味悪かッたよ。化生かと思って、僕は走って逃げてきたんだア……」
 少年は飴色の髪の異国人で、名をザカライアと云う。卵色の肌に赤らむ頬、優美な薄い眉、夜明け色の瞳などは西洋の宗教画に描かれる聖童貞のような清らかさを称えており、誰もが見蕩れるような紅顔の美少年である。少年は、大げさに手を広げて、こんな風に、と真似をした。
 それを聞いて、破れかぶれの薄汚いソファに寝ころんでいた少年が、半身を起こしてソファの上で胡座をかいて頬杖をついた。この少年は名を齋藤中也と云い、五尺二寸ばかりの小柄な童顔である。高下駄に逆あみだかむりして、髪をのばしマントを羽織り、弊衣破帽の豪放ぶりやといったところ。おおきな二重の瞳は化粧したような紅に染まっている。彼はポケットからバットを取り出して喫みながら、
「気違いに決まってら。春冷えの時期に川に入ろうなんてのは。」と云い捨てた。
「堕胎かな。」
 窓べりの埃を払っていた譽が、うわ言のように呟いた。二人の少年は彼女を見て怪訝そうに首をかしげた。蛮カラの中也少年が聞き返した。
「堕胎だって?」
「よくある話だよ。掻爬する金の無い女が冬の川に入水して堕ろそうとするんだ。ただ、今の時期は如何だろうねえ。どう思う? 犬神。」
 犬神と呼ばれた、窓際の椅子に腰かけた少年は、読書を止めて顔を上げた。銀縁眼鏡をかけた、聡明を絵にかいたような涼やかな顔立ちの少年である。犬神は切れ長の瞳を瞬かせて、
「はあ。堕胎。」と間の抜けた声を発した。「そういう方法もありますが、今の御時世にそのような旧時代的方法を取りますか。まだホオズキを煎ずるほうが趣がありますが、何方にしても古臭いですね。」
「じゃ、只の水浴びじゃあないの。ザカライア。」
 譽は軽く笑った。ザカライアはなおも恐怖を伝えんと顔を赤らめて云った。
「それにしたッて、異様な雰囲気だったよ。川縁で凝イ……っとそれを見ている女もいてさ。」
「不良娘のお遊戯に違いねえ。」
 中也は一笑に付して、また午睡にはいった。ザカライアは飽きた様子で何処かへ遊びに行ってしまった。
 喧しい校内のひずみに生まれたしじまの室。
 譽は何の気なしに犬神の読んでいた本を取り上げて表紙を見た。黒い表紙に赤文字で、『ドグラ・マグラ』とある。譽は一寸馬鹿にしたような顔を浮かべた。
「ヘエ、才子犬神君でも幻想小説がお好きなの……」
 犬神は咳払いをした。
 犬神は博覧強記の愛書家である。今になって怪奇幻想小説の傑作と名高い『ドグラ・マグラ』に手を出すのは聊か遅蒔きだと譽は揶揄ったのである。
「期待を裏切るようですが、再読ですよ。」
「何ンだ。好きなんだね。」
「否……」犬神は譽から本を取り返すと、頁を人差し指で弄りながら、ボンヤリと窓外を眺めた。夕映えが揺らぐ二人の影を部屋の床に落とし込んだ。
「昨夜、お爺さんが睡むるときに、左半身を下にしているのを視たンですよ。それが僕の寝姿によく肖ていると貴女は云ったでしょう。」
「ああ、そんなこと、云ったかな。」
「フと、之は遺伝かと思ったのですよ。それで、昔夢野久作の本で其様な話があったと思い出しましてね。まあ……気紛れですよ。」
 譽は弁解じみた犬神の話を聞き流しながら窓べりを拭き続けていた。